伸ばした手、掴めなかった指先
心音はスーパーの袋を持って、鼻歌を歌いながら街中を歩いていた。成歩堂なんでも事務所の茶菓子が切れたので買い出しに来ている。
その道すがら、夕神を見かけた。
かなり離れてはいるが、間違いなく夕神だろう。長身で黒尽くめの姿は、遠目からでもひと目でわかる。思わず声をかけようと手を振り上げかけて、直ぐ側に小柄な女刑事がいるのに気付いた。宝月茜刑事だった。
ということは、しごと中ということになる。弁護士である自分が、街中で気軽に検事へ声をかけるものでもないだろう。なにより、しごとを邪魔されるのを夕神は嫌う。邪魔。邪魔。
邪険にされるのは嫌だった。心音は声をかけるのをやめた。
やめた、が。
どうにも、心の中がもやもやする。
別にしごと中、検事と刑事が歩いているだけだ。根が真面目な2人のことだから、きっとしごとの話しかしていないはず。いや、仮にふたりがプライベートな話をしていたところで心音には関係がない。夕神はただの昔なじみで、兄のように慕う肉親のような存在だ。宝月は、縁あって事務所ぐるみで親しくしてもらっている、友人のような姉のような、そんな女性だった。
別に2人が街を歩いていたって、なんの問題もない。
問題ない、はず。
『ムカムカー』
胸元の相棒が、自分の感情を的確に言語化した。
そう。胸がむかむかする。けれど、その理由がわからなかった。
「うーん。お昼の天丼、食べすぎたかな?」
心音はもっとも現実的な結論を見つけて、帰所すべく2人から目をそらした。
そらそうとした、その瞬間。
夕神が宝月の肩に手をかけるのを、見た。
──思わず、駆け出していた。
きっと、宝月が道につまづいてよろけただけなのだ。それを、夕神は支えようとしただけなのだろう。理性ではそうだとわかる。けれど、感情がついていかなかった。
太い指が、細い肩を抱く。自分以外の肩を。
だめ。
いつも自分の頭を優しく撫でる、あの、太い指が。
だめ。
いつも自分の傍にある、たくましい腕を目指して手を、伸ばす。彼の、それは──
だめ。
──だめ!
心音は、足を止めた。
目の前をトラックが通過していく。赤信号だった。向こう側の道に2人の姿が見える。もう、夕神は宝月の肩を抱いてはいなかった。
……危なかった。
心音は我に返って、大きくため息を吐き出した。
だめ、なんて。
どうしてそんなことを思ったんだろう。
彼はただの昔なじみで、兄のように慕う肉親のような存在で。だから──
「……帰ろう」
心音は、考えることをやめた。胸のなかのもやもやは、いつの間にかずっしりと重い塊に変わっていた。これはもう、先程買い込んだチョコチップクッキーを頬張るしかない。所長にはお茶だけで我慢してもらおう。
心音は視線を上げた。いつの間にか、信号は青になっていた。
目の前に、夕神がいた。
「よォ。こんなトコで会うたァ、奇遇だなァ。月の字」
意地悪そうに口角を歪めて、大きな手のひらで頭を撫でてくる。
さっき、手を伸ばしてもつかめなかった、指先が。手のひらが。
自分の頭を撫でていく。
「どうした、こんなトコで」
いつも通りの声。
自分だけにしかわからないほど、微量な優しさが混じった低音。
視線を合わせると、黒い瞳が自分を見ていた。その視線は、昔と少しも変わらないままだ。
胸のなかの塊が、あっという間にどこかへ吹っ飛ぶのを感じる。
心音は、ふいに閃いた。
あ、わたし。
このひとのコト、好きなんだ。
思わず、すぐ傍にある夕神の太い指先を、つかむ。勝手に誰かの肩なんて、抱いたりしないように!
「あの、夕神さん。お話があるんですが──!」
『伸ばした手、掴めなかった指先』Closed.