本音か嘘か
わたしには、本音か嘘かがすぐにわかる。
「──二度と俺に近寄るンじゃねェ」
鋭い眼光。低い声。澄み切った静かな怒声はノイズの混じらない純粋な憤り。
その『声』を聴いて、すぐにわかった。
彼が、本気でそう言っていることが。
「わかったな、ココネ」
「ひゃいいいいいッ?!」
部屋から去っていく黒い背中を見送りながら、わたしは突然のことにフローリングに膝をついた。
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「一体ユガミ検事になにしたの、ココネちゃん」
事の顛末を話した後、ナルホドさんが眉をしかめながらお茶を啜った。わたしは自分の机の上に頬を乗っけながら、駄々をこねるような低く間延びした声を上げる。
「わかりませんよぉ〜〜! ジョギングから部屋に帰ると、遊びに来てた夕神さんが突然『帰る』なんて言い出したんです」
「ジョギングに行く前に、なにかやった記憶は?」
王泥喜先輩がお茶を入れた湯のみをわたしの机にも置いてくれたので、わたしはのろのろと身体を起こしながらお茶を啜った。暖かくてほっとする。傷心のココロに沁みた。
「なにか……?」
「ユガミ検事を怒らせるようなコトだよ」
わたしは腕を組んで唸った。そんなの。
『心当タリ、アリスギルー』
「だろうね」
「そんな気はしてたよ」
「まず昨日のコトを整理してみましょう! 昨日は日曜日で、わたしは朝から夕神さんと一緒にいました」
「早くも突っ込みたい事案が出たね」
「僕、キミのお母さんになんて言えばいいんだろうね……。キミを預かってる身としては今晩にでも枕元に立たれそう」
「でも、特になにもせずゴロゴロと2人で過ごしてたんですよね」
金曜日の夜に一緒にご飯を食べて、遅くなったので泊まって行ってもらって、朝起きてからずっとのんびり。いい休日だと思っていた。夕神さんは、そうじゃなかったのかな。
考えると目尻に涙が浮かんでくる。それをぐっと堪えて歯を食いしばった。そんなわたしを、見ているのかいないのか、ナルホドさんが深く頷く。
「ユガミ検事って、男性として機能してるのかい?」
「ナルホドさん、直球過ぎます」
「? 『ダンセイとしてのキノウ』ってなんの話ですか」
「一生気にしないで、続けて。ゴロゴロしてただけなの?」
王泥喜先輩に促されて、わたしは昨日のことを必死で思い出そうとした。と言っても、特別大きな出来事はなかったように思う。
「……うーん。少なくとも、わたしはそう感じてましたね。わたしが判例集を読んでて、夕神さんはしごとしてて……あ! そう言えばわたし、わからなかったりイマイチ解釈できないトコロがあるとすぐに話しかけてました。も、もしかしてそれがうっとおしかったとか?! でも、嫌そうなノイズは聴こえてこなかったし……」
夕神さんはわたしが質問すると、少し眉を上げた後、答えじゃなくてヒントを教えてくれていた。どの本を読め、とか、どの判例の応用だ、とか。わたしはそれを聞いてからまた勉強に集中して、夕神さんはしごとに戻った。声は静かで、いつも通り温かくて、怒りどころか優しくて蕩けてしまいそうだった。
「その……全然、怒ってもなかったと思いますよ……?」
思い出して、なんだか照れくさくなってしまった。自分が結わえたサイドテールを撫でて落ち着こうと試みる。やっぱりナルホドさんは、わたしのことを見ているのか見ていないのかわからないとぼけた表情で自分の顎を撫でた。
「うーん……そこで怒るなら、もっと怒りどころがありそうだよね」
「そうですね。ほら、希月さん以前『塩と砂糖間違えたチャーハンつくった』って言ってたよね」
「はい……ちょっと食べるのには辛い味でした……でも夕神さん、全部食べてくれたんですよ!」
ナルホドさんが深く頷いて、
「……それさえも許すユガミ検事を怒らせるって、一体どんなコトやらかしたんだい?」
「わーん! それがわからないんですってばあああ!!」
「本当になにもなかったの?」
「うーん、うーん……あ! 金曜の晩、夕神さんの買ってきたプリン食べちゃいました!」
「……それが理由なら、小さい男だなぁ……」
「夕神さんは大きいですよ?」
「器の話だよ。……でもまぁ、こうなるといよいよ本人にしかわからないコトなんじゃないかな」
「恋人同士の話ですからね。横からちょっかい出さない方がいいだろうし」
突然『コイビト』なんて単語が出て、驚いてサイドテールが跳ねたのを感じる。
「こ……?! こここ、恋人って……、ゆゆゆ夕神さんとわたしがですかッ?!」
そんなわたしの反応に、ナルホドさんと先輩はちょっと目を丸くした後、半眼になってわたしを見てきた。
「……あー……親代わりとして言うけど、恋人でも未成年が男の人を泊めちゃダメです、って叱るのに、恋人じゃない男を泊めるとか本当、相手をぶん殴りに行くからね?」
「えっ、あの! でも、夕神さんですし! 子どものころからの知り合いです……そういう心配はいらないかと!」
そう、本当に、ただ帰りが遅くなったから泊まって行ってと勧めただけで。そういうことはこれまでにも何度もあって。そういうことがあっても、全然ナルホドさんが言うような心配なコトはなくって。
……悲しいくらい、そういうそういうコトはなくって。
『夕神サンノバカヤロー!』
「……希月さんには思うところがあるみたいだね」
「ま、いいや。なら、なおさら本人に訊いておいでよ」
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ナルホドさんと王泥喜先輩に勧められて、わたしは検事局までやって来ていた。エントランスの前で立ちすくむ。気乗りしなかった。もちろん、夕神さんには会いたいんだけれど。
──二度と俺に近寄るンじゃねェ。
あんなコト言われて、堂々と会いに行けるわけがない。
もっと嫌われたらどうしよう。
でも、もう会えないなんてもっともっと嫌だ。
涙目になりながら唸っていると、眼前が影に覆われた。顔を上げるより早く頭を片手で掴まれる。
「いだだだだ!」
「おいヒヨッコ弁護士。検事局前で涙目になりながらうろつきやがって。なんの用でェ」
夕神さんが片手でわたしにアイアンクローをキメていた。すでに両足が浮いている。すかさず腕に足を巻きつけて巨体を地面に引き倒そうと体重をかけた。突然の攻撃によろめく巨体。地面に衝突する時に受け身を取ったのを確認しながらマウントを取ろうと素早く腰を太ももで固定し、上半身を起こして男の首元を締め上げようと手を伸ばした。その手を掴まれて、腰ごと抱き上げられて米俵みたいに担がれてしまう。
「わーん! くやしい〜〜〜! この筋肉ダルマー!」
『脳筋検事ー!』
「黙りなァ。テメェはわざわざここまで来て俺にプロレス勝負を挑みに来やがったのか!」
「あ」
いけない。目的を忘れていた!
というか、あんまり夕神さんがいつも通りで、こっちもいつも通りになっていた。
夕神さんはわたしを担いだまま、検事局に戻ろうとしている。自分の執務室まで連れて行ってくれるのだろう。相変わらず俵持ちされていて、局内でもかなり目立っていた。
「……夕神さんが、怒ってたから……」
「あァ?」
そう問いかけるころにはもう、夕神さんの執務室に着いて身体を地面に下ろされていた。
「……夕神さんが、二度と近寄るな、なんて言うから……!」
わたしが泣き声でそう言うと、思い当たったのか夕神さんは驚いた表情をして、顎をさすった。
「……あらァ……言葉のアヤってヤツよ。……本音じゃ、ねェ」
「嘘」
即答すると、夕神さんがう、と低くうめくのが聞こえた。
「……本気の音が、聴こえました……」
「……本音じゃねェ。泣くな……」
「嘘なのにノイズが聴こえないなんてあるわけないですもん! 夕神さん、わたしと二度と会いたくないんですか!」
口に出したらなんだか現実に起こる気がして、涙が止まらなくなった。目からぼろぼろ雫が溢れているのを感じるけれど、それでも夕神さんから目を離さない。夕神さんは、困った表情をしている。きっと面倒くさい子だなって思ってる。
……また、嫌われちゃったかな。
「うっ……わかりました……もう、会いに来ません……」
「! ココネ!」
「嘘」
「……」
「夕神さんが嫌でも、会いに来ちゃいます……」
だって、だってすぐに会いたくなるに決まってるんだから。
──7年会いたくてたまらなかった人のコト、簡単に諦められない。
「……ココネ」
夕神さんは困った顔をした後、そっと頭を撫でててきた。それから、昔みたいに優しく抱きしめてくる。
「……言い過ぎた。俺が、悪かった」
「……なんで……あんなコト……酷いです! なんで怒ったのか、全然わからないし……」
太い腕の中で泣きながら抗議すると、夕神さんは困ったような恥ずかしがっているような、変な感じで顔を歪ませた。
「……お前ェ、あのランニングウェアはどうにかなンねェのか」
「?」
「首も肩も足も丸見えだわ、汗だくになってるわ……そんなんで出会い頭に抱きつかれるこっちの身にもなりやがれ」
「??」
「あんな格好で二度と俺に近寄るンじゃねェぞ。わかったか、このイノシシ娘が」
最後に額を太い指で弾かれた。少し痛い。それに納得いかなかった。
「??? 要するに、夕神さんはわたしのあの格好が嫌だったんですか?」
「……………………まァ、そうでェ」
「じゃあ、あの格好やめたらまた遊びに来てくれます?」
「……あァ」
「またご飯食べに来てくれますか?」
「あァ」
「泊まって行ってくれますよね?」
「……何度も言ってるが、そりゃやめた方がいいって……」
「どうしてですか?」
「……………………」
夕神さんはむっつりと押し黙って、それからわたしを抱きしめる腕に力を込めた。
「……男を泊めるってことがどういうことか──今日、部屋に行って教えてやらァ」
どういうことだろう。なにを教えてくれるんだろう。
一瞬本気で考え込んで、次の瞬間にあ、と声が出た。まじまじと夕神さんを見上げる。
「……本当に?」
「……本音か嘘か。お前さんなら、わかるだろォ?」
見上げた夕神さんは、少し目元が赤かった。
それでわたしは、夕神さんの胸元に額を埋めて、押し付ける。
「──……はい」
わたしには、本音か嘘か、わかるんですよ。
ねえ、夕神さん?
わたしも、教えてあげますからね。
『本音か嘘か』Closed.