雪うさぎの結末は
ふと、冷気が頬をかすめる。
それで心音は目が覚めた。冬の気配が濃くなって久しいが、ここまで冷え込むのも珍しい。眠い目をこすりながら身を起こすと、窓から差し込む光がやけにきらきらとしている。そっとカーテンの隙間から外を覗き込むと、思わず目を丸く見開いた。
雪が、世界を覆っていた。
「カグヤちゃん、ジンくん、おかーさーん!」
真理の研究を手伝って泊まり込んでいた夕神は、心音にしっかりコートを着せて外へ連れ出すことにする。マフラーをつけてやる時に覗き込んだ大きな碧眼は、好奇心と雪の光で輝いていた。
「よし、長靴履けよ。走ンな」
「うん!」
元気よく返事をしてから、心音はぽんと外へ飛び出した。
「うわぁ!」
心音から見た景色は、どんな風にうつっただろう。
見慣れたGYAXAの周辺景色は、寒波の影響を受けた積雪に覆われて真っ白に輝いている。スペースシャトルの発射を想定したセンターだけに、山奥に居を構え、もともと自然豊かだが、しかしここまで雪が積もるのも珍しい。
すでに葉を終えた枝ばかりの木々に、白銀の実が連なっている。それが朝の光に溶けて、薄っすらと水滴が滴っていた。それがまた光を得てキラキラと反射する。山に並ぶ木は全てそんな様子なので、山全体が白くつやつやと光っているようだった。奥の山々は空気にけぶって青く、やはり静かに光って見える。
壮観と言ってよかった。
夕神が山々に見とれる中、足元で心音がはしゃいでいる気配がする。足元に視線をやると、小さな心音がぴょこぴょこと飛び跳ねて雪の感触を確かめていた。
「すごい! こんなに積もってるのはじめて見た!」
身体と一緒にサイドテールも跳ねるので、なんだかうさぎみたいだな、と思って夕神は笑った。
「さて、なにして遊ぶ? 雪合戦かィ?」
雪と言えば雪合戦。薄っすらと積もった日には車のボンネットに溜まった雪をかき集めて、友人たちとべしゃべしゃと投げ合ったものだ。
だが、心音は不思議そうな瞳で見上げてきた。
「ゆきがっせん、てなに?」
──心音が女児だからか。それとも友人がいないからか。
ジェネレーションギャップとは思いたくない。夕神はひとまず、足元にかがんで小さな雪だまをつくった。その雪だまに、その辺りに生えていたナナカマドの実と葉をくっつける。真っ赤な実は目。濃い緑の葉は耳。
ゆきうさぎが、夕神の足元に誕生した。
「わあ、かわいい! ジンくん上手だね」
心音が高い声を上げて笑うので、夕神はホッと息を吐いた。師や姉に見られでもしたら『成人男性が随分かわいいモンつくったわねー!』と爆笑されたに違いない。少女の純粋な反応に、夕神は胸をなでおろした。ぜひ心音にはこのまま素直に成長してもらいたい。
「ココネもつくってみろや」
「うん!」
手袋に包まれた手にめいいっぱい雪をつかんでかたまりをつくる。夕神のもの以上に歪つだが、本人は気にしていないようだ。楽しそうに小さな白い塊を転がしている。
「あのね」
「ん?」
小さな手が一生懸命動くのを見ているだけで微笑ましい。声は笑んでいたと思う。
「これできたら、お母さんにあげたいなぁ!」
思わず心音の顔を見ると、満面の笑みだった。夕神も、自然と口角が上がる。心音といると、いつもこんな風になるのだ。
「……きっと師匠も喜ぶさァ」
「そうかなぁ。あ、でも“ゆきがっせん”? もしてみたい!」
「じゃ、次だなァ。友達呼んどけ」
「……しのぶ、来てくれるかなぁ……」
そう、約束したものの。
次の日にはすっかり雪は溶けてしまって、雪合戦をすることはなかった。また来年な、と言った自分の言葉を、心音が覚えているかはわからない。
次は、やって来なかったのだから。
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べちょり。
自分の顔面から情けない音が響いたのを、夕神はぼんやりと聞いた。あまりにマヌケな音だったので現実だと思えなかった。
「アハハ! 夕神さんが白黒だー!」
無邪気な笑い声が耳を裂くので、夕神は片眉を跳ね上げる。
心音の放った雪だまが、顔面を直撃したのだ。
というか、自分は彼女の勤め先が開催する「第一回成歩堂なんでも事務所雪合戦大会」に参加した記憶がない。ただ珍しく雪が厚く積もったので、心配になって心音の様子を見に来ただけなのだ。それなのにこの仕打ちは解せぬ。
夕神は顔を拭いもせず、心音を思い切り睨みつけてやった。
「……テメェ、調子乗ってンじゃねェぞ」
「きゃー! ユガミ検事が怒ったー!」
心音の背後でみぬきが甲高い声を上げる。それを王泥喜が苦笑しながら優しい瞳で見つめていた。夕神が王泥喜の方に鋭い視線をやると、まぁまぁ、と両手のひらを上げられて窘められた。思わず口の中で舌打ちをする。
「鬼も鬼、とっても優しい元囚人検事さんが怒ったので! これは我々、全力で逃げないといけませんよ!」
「わー! みぬきちゃん、にげてー!」
みぬきの声に心音が乗っかった。きゃっきゃと笑いながら2つの声が夕神から遠ざかっていく。一緒に遠くなっていく栗色の髪を眺めて、ふと、夕神は思い出した。
──ゆきがっせん? も、してみたい!
「アハハハ!」
高い笑い声に重なる、幼かったあの頃の姿。
次の日には溶けてしまったゆきうさぎ。
どろどろの液体が、血液に赤く染まった師の遺体を思い出させる。
ぎゅっと、一度だけ目をつむった。
もう一度目を開くと、そこはやはり、白銀の世界。
すでに葉を終えた枝ばかりの木々に、白銀の実が連なっている。それが朝の光に溶けて、薄っすらと水滴が滴っていた。それがまた光を得てキラキラと反射する。街に並ぶ木は全てそんな様子なので、街全体が白くつやつやと光っているようだった。遠くのビル群は空気にけぶって青く、やはり静かに光って見える。
壮観と言ってよかった。
夕神は、笑った。
──じゃ、次だなァ。友達呼んどけ。
「ほらほら、夕神さん! 鬼さんこちら、ですよー!」
「ココネさん、それ違う遊びですよ」
「アレ? うーん。わたし、雪合戦ってはじめてなんだよね」
「えー、ホントですか?」
夕神は笑って、足を踏み出した。
いつかの約束を、彼女が覚えているかは、わからないけれど。
「……おゥ、初心者。3秒待ってやらァ。お祈り済ましとけ。じきにあの世拝ませてやらァ」
「ぎゃーーー! ユガミ検事がホンキだーッ!」
『ゆきうさぎの結末は』Closed.