香りを移して

「あれ。ユガミ検事、今日はなんだかいい匂いがしますね」
 そう言って陣羽織を手に取ってふんふんと鼻を動かす小さな女に、夕神は眉を顰めた。つむじの見える頭を片手で鷲掴んで引き離す。
「かりんとうよ。お前さん、いい歳なんだから職場の廊下にいる男に近づいてニオイなんぞ嗅ぐな。慎みってモンを知れ」
「あれ、本当だ。いい匂いだけれど、キミのイメージとちょっと違うかな」
 そう言って、夕神の背後から近づいてやはりふんふんと鼻を動かす男。夕神は頭を抱えた。
「牙琉よ。お前さん、いい歳した男なんだから職場の廊下にいる男に近づいてニオイなんぞ嗅ぐな。正直、引く」
「やだな。僕だってそんなシュミないよ。けど……これって、女性もののトワレだろう?」
 石けんの清潔な匂いに、わずかに甘い匂いが混じっている。フランスでは小学生がよく身につけているが、日本では女子高生もまとっている定番のオードトワレ。
 牙琉の指摘に、夕神は黙り込んだ。黙り込んだ様子を観て、宝月と牙琉は目を見合わせて、人が悪そうに笑う。
「はっはーん。今日は希月弁護士の家からご出勤ですかー?」
「違ェよ」
「刑事クン、彼は女性の部屋に泊まれるような男じゃない。希月弁護士が泊まったんだろ?」
「ははぁ。ユガミ検事ってばカタイですねー。まあ、知ってましたけど」
「……てめェら、さっさと仕事に戻りやがれ!」
 羞恥に堪えかねて声を上げる夕神を笑いながら受け流して、宝月と牙琉はさっとそれぞれの目的地へと向かった。
 書類を抱えて検事局内を歩いただけで、なぜ厄介な奴らのカモにされなければならないのか。夕神は憤慨した。
 憤慨したまま自らの執務室に戻り、身につけた羽織を鼻先に当てる。確かに、微かに石鹸の香りがした。いつも少女から漂う香りだった。今朝方までともに過ごした少女の笑顔を思い出して、気持ちが落ち着く。悪くないと思った。それと同時に、元気さが取り柄となった少女がいつの間にか香りをまとうようになったことに驚きを感じる。
 十分過ぎるほど知ってはいるが、やはり彼女は確実に「女」としての成長を遂げているのだ。それが嬉しくもあり、不安でもある夕神だった。
「香水ですか? 香水っていうか、トワレをつけてますよ」
 ほら、と目の前で小さなスプレーをかざされて、プシュっと一吹きされる。鼻先にふりかけられると、わずかでもかなり強烈に香った。思わず眉を潜める夕神に、笑う心音。
「あはは! ビヨウインさんのマネー!」
「ヤメロ。そこまで言ってねェ」
 きゃっきゃと笑う心音の身体を丸ごと腕で包んで、そのまま膝に乗せる。二人分の体重を受けて、自身のベッドがぎしりと音をたてた。風呂上がりのしっとりした若い肌に触れるのが心地いいと素直に思う。
「夕神さんは香りが苦手なひとでしたっけ?」
 問われて夕神は考えた。姉が使っていたような気もするが、今となってはよくわからない。師からは焚き染めた香の匂いがしたと思う。香水でないのは、着物にアルコール分を移してシミにしないようにと説明されたことがあった。その後姉から、数日風呂に入らずに研究し通しでも誤魔化せるから、という最低な理由が付け足された。今となっては事実かどうかはわからない。しかし、どちらも苦手だと思ったことはなかった。
「……別に、苦手じゃねェ」
「よかった」
 腕の中の少女は身体を捩って、正面から抱きついてくる。鼻先に撒き散らされた石鹸の匂い以外に、甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「まだなにか付けてンのかィ?」
「え? 今はなにも付けてませんよ」
 不思議そうな表情で見上げてくる心音に、夕神はさっと額に口付ける。やはり甘い匂いがした。
 確認するように何度も頬に口付けると、心音が嬉しそうな悲鳴を上げる。その声を聞く度に胸にとろけるような感情が広がって、指の先まで幸福で満たされた。
 口付ける度に微かな香りが夕神を優しい気持ちにするので、そこで、はたと閃く。
 そうか。この匂いは。
「……やっぱり、香水は禁止でェ」
「ええ?! なんでですか! フランスでは『香水を付けない女の人生は終わってる』なんて言われるんですよ!」
「お前さんは日本人だろォ」
「日本にもお香の文化がありますよ! お母さんが付けてました」
「禁止だ」
「なんで!?」
 女として不服らしく、眉尻を釣り上げて抵抗する心音の高い鼻先を軽く噛んで、その次に唇を触れ合わせる。途端に赤くなる様子に、まだ残るあどけなさを感じて安堵した。
「……あの、夕神さん?」
「……どうせ匂いが移るなら、お前さん自身の匂いの方がいいンだよ」
『香りを移して』Closed.