聖なる夜の、その前に

 宝月茜が県警捜査一課にある自分の机でだらだらと菓子をかじっていると、突然重苦しい気配を感じた。頭上から迷惑なほど輝くLED光が遮られて、自分と机に大きな影がかかる。

「よォ、かりんとう」

 かりんとう、とは宝月のことだ。手に持った菓子のことを揶揄しているのだろう。宝月は迷惑そうに瞳を細めて男を見た。夕神迅検事だった。

「わざわざ警察署になんの用ですか。用があるなら検事局に呼びつければいいでしょ」

 夕神は部下遣いの荒い方ではないが、検事という挟持が無意識にあるのだろう。上からの物言いをすることが少なくない。検事職に就く人間は、多かれ少なかれそうだ。そういった意味で夕神も規格外ではない。

「……しごとの話じゃねェ」

 低い声は言葉少なだった。それで宝月はぴんとくる。にやりと口角を上げた。

「ふぅん。キヅキ弁護士の話ですか」

 夕神は黙したまま語らない。それがなにより雄弁に事情を語っていた。

「付き合います。キョーミあるし」

「……他言するンじゃねェぞ」

「それは内容によりけりですね」

 宝月は笑って席から立ち上がる。ちらりと時計だけを確認して、定時だから上がるわね、とすれ違った遅番の同僚に声をかけた。

 

 

 夕神と並んで歩く街並みは、すっかりクリスマスムードだ。街路樹が青色の電飾でちかちかと輝いていて賑やかな雰囲気をつくっている。吐く息も白くなって、今年は寒いなとふいに感想が脳裏をよぎった。

「それで、キヅキ弁護士へのクリスマスプレゼントの相談ですか?」

 いきなり傍らの巨体に直球を投げた。ストライクかと思ったが、夕神は片眉をぴくりと上げるだけだった。宝月は首を傾げる。

「あれ、てっきりそうだと思ってたんですが。もっと深刻な話ですか。それとものろけ?」

「最後のはなんでェ。いつ俺がお前ェにのろけた」

「わりと頻繁に。昨日は捜査中にすれ違ったキヅキ弁護士を見て『ありゃスカートが短い。風邪ひいちまう』とか言う流れで、彼女がいかに美脚を晒しているかを愚痴られましたね。その前は『ちっとも料理がうまくならねェ』とか言いながら、この前つくってくれたアレはマシだのアレはヒドイだのという話も聞きました」

「……愚痴じゃねェか」

「これをノロケと言わずになにをノロケと言うんですか」

 言い返すと、夕神は黙った。きっと己の発言のこっ恥ずかしさを指摘されて反省でもしているのだろう。元囚人という肩書を持つが、根は真面目な男だった。

「で。プレゼントじゃないんですか?」

「………………」

 夕神は黙ったままだ。そんなに言い難いことなのだろうか。

「…………クリスマスプレゼント、じゃ、ねェ」

「はぁ」

「………………け……………」

「お?」

「……………婚約指輪を、買おうと思う」

 宝月は、ほう、と息を吐いた。

「ようやく」

「そのリアクションはちっとおかしいンじゃねェかィ?」

「いや、多分検事たちの周りはみんなこういう反応だと思いますよ」

 夕神の無罪が晴れて、数度目の冬になる。夕神と希月心音が恋人関係になるのに時間はかからなかったので、やはり2人は数度、寒い冬を一緒に過ごしていることになる。

「キヅキ弁護士は若いけど、もう一人前の弁護士で、社会人。彼氏は真面目な検事さん。結婚しない理由の方を訊いてみたかったくらいですよ。なんでなんですか」

「するっつってンだろォが」

「なんでしなかったんですか」

 宝月の質問に、夕神は口を噤んだ。前髪で隠れた瞳がさまよっている気配を感じたので、言葉を選んでいるのだろう。

「……俺の、自信がなかっただけでェ」

「自信」

「……ココネを、幸せにする自信が」

「ついたんですか」

「……ココネが、『一緒にいると幸せです』っつーからよォ」

「はー、ノロケノロケ」

「オイ、訊いてきたのはテメェだろうが!」

「あ、じゃああたしたち今、ジュエリーショップに向かって歩いてるんですね」

「聞けよ」

「目星ついてるんですか」

「……姉貴がココに行きゃいい、と」

 言いながら夕神が足を止めたので、宝月も立ち止まった。会話に集中している間、高級ブランド街に入っていたらしい。ブランドロゴが光り輝くきらびやかなショップが立ち並ぶ中、ひときわ歴史を感じさせる石造りのビルの入り口まで来ていた。ローマ数字を大胆にあしらった時計が正面玄関に飾られていて、夕神はその下に構えられた重厚な扉に近寄る。仕立ての良いトレンチコートを羽織ったドアマンがお辞儀をしながら、丁寧にドアを開けてくれた。

「……え。ココの買うんですか」

「なンか有名な店なのかィ」

「世界的に有名な店なんじゃないかと思います」

「へェ」

 興味がなさそうだった。男性はそんなものかもしれない。宝月も特別貴金属に興味がある質ではなかったが、しかしそれでも名前くらいは聞いたことがあるジュエラーだ。しがない地方公務員で、特別興味もなければ買ってみたいと思うこともない金額だったはず。

 価格帯については店内の内装を見ても察することができた。毛が長くてヒールまで埋まってしまうほどの絨毯。天井を覆う巨大なシャンデリア。それを飾ってなお広々とした店内。ショーケースに並べられるダイアモンドはひと目見ただけでも素晴らしい職人技によるカッティングだと知れた。少なくとも、仕事帰りに普段着で入るような店ではない。

「え。今日買うんですか」

「悩んでも仕方ねェだろォ」

「……こういうのはキヅキ弁護士本人に選ばせた方がいいんじゃないですか」

 店に気後れして小声で言うと、夕神が無言で見下げてきた。長身の男と宝月は、かなり身長差があって視線を合わすことさえ難しい。

「……こういうのは、求婚するのと同時渡すモンじゃねェのかィ?」

「いや、最近は双方合意の上で買いに来る方が多いと思いますよ?! 金額が金額ですし!」

「そうかィ……だが、まァ……今日でいいだろォ」

「なんで!」

 あたしは嫌! 自分のものならともかく、他人へのプレゼントでこんな高額商品選べない!

 帰りたい。帰りにおしるこでも食べて帰りましょうよ。宝月は瞳で訴えた。

「……ココネは、こういうのは受け取りたがらねェ。だから、買って渡しちまった方がいい」

 どうやら宝月の訴えは無視されたようだ。この男の目には希月心音しか入らないらしい。

「きっ……キヅキ弁護士は確かにあんまり指輪とかするタイプじゃないし、好みじゃないモノをプレゼントするのはどうかなー」

「……こりゃ、結納代わりの俺なりのケジメでェ」

 あー真面目。面倒くさ!

 宝月は内心げんなりとして、さっさと済ませることに主眼を切り替えた。

「……じゃ、どういうのをイメージしてるんですか。結婚指輪じゃなくて婚約指輪なら、オーソドックスに立て爪ダイヤ? でも大きい飾りのついた指輪って、仕事中とかは不便なんですよね。それならあたしは、時計とかの方がいいけど……」

 ぼやくように宝月が言うのを、夕神はきちんと聞いていたようだ。幾度か頷く。

「……それについちゃ、また考えておく。とりあえず指輪でェ」

「どんだけキヅキ弁護士に貢ぐ気ですか」

「……嫁に貢ぐたァ言わねェだろォ」

「もう嫁気分ですか」

 じっとりと黒い男を見上げると、やはり陰気な瞳がじっとりと見返してきた。

「あの。お客様?」

 見かねた店員が、上品に声をかけてきた。慌てる宝月。

「あ。すみません。婚約指輪を探してるんですけど、どこに?」

「ああ。それでしたら、こちらにエンゲージ、マリッジリングをご用意しております」

 店員は上品な話し方で、ゆったりと店内を案内してくれる。丁寧なのに思った以上に気さくな笑顔で、一流店というのは堅苦しいだけではないんだな、と肩をなでおろした。

 店員が案内したのは、店内の奥に置かれたショーケースだった。特別な時のためのジュエリーを揃えているのだろう。入り口付近で見かけたファッションジュエリーとは趣が異なっていた。薄暗い照明は、ちょうどダイヤモンドのカッティングが最も輝く位置にセッティングされている。大げさでなく、小さな石つぶは虹色にきらきらと輝いていた。

「はぁ〜。さすが、一流のジュエリーショップ……」

 溜息とともに軽口を叩いて、宝月はショーケースの中を覗き込んだ。興味本位で値札を見る。

 ひえ。

 声も出ずに、札から視線を外した。ボーナス二回分、では足りないかもしれない。

 後ろに控えた大男を見上げた。男は冷静な顔をしてショーケースを眺めている。

「で。どれがいいンでェ?」

 宝月は答えられなかった。答えたくない。責任が取れない!

 宝月は死んだ瞳で店員を見た。助けてほしい。

「……コーユーノハ、ナニヲキジュンニキメレバ?」

「もちろん、身に付ける方のお好みで構わないと思いますが」

 店員はにこやかに返して、宝月は夕神を見上げた。夕神は息を吐き出す。

「……こいつは、ただの付き添いでな。渡す相手はコイツじゃねェ」

「そうでしたか! それは失礼しました」

 店員は驚いたようではあったが、慌てた様子はなかった。多くはないが、女友達か同僚かに助けを求める男性はいるということらしい。

「では、お相手はどんな方でいらっしゃいますか」

「……威勢のイイ、仔猿みてェな……懐いた野良犬みてェな……飼いならされた猫みてェな……」

「元気な可愛らしい女性でいらっしゃるんですね」

「……………」

 宝月は店員の話術に素直に感心した。一流店とは、一流店と言われるだけの理由がある。

「婚約指輪はあまり長い時間身に付けることを想定したジュエリーではありません。特別なときに身につけていただくものなので……石付きを選ばれる方が多いのはそのためですね」

 店員は笑顔のまま、ショーケースのロックを外していくつかのリングを取り出した。

「けれどお話を伺うと、お相手の方は可愛らしい、まだお若い方のようです。でしたら、大きなものよりも小さくて身に着けやすいものの方がよろしゅうございましょう。お若い方の手に、大きな石の付いたリングはバランスが悪うございますから」

 店員が選んだリングは、キラキラと輝いてはいるが石自体は小さい。セッティングも立て爪ではなく、平たい台座にこぢんまりと一粒石が収まっている。たしかに、これなら身につけやすそうだ。

「へぇ。かわいい」

 と、いいながらやはり値札を見た。ちっともかわいくない値段だった。店員が宝月の仕草を見て、笑った気配がする。

「石は小さくとも、質が高いものを選べばよろしいかと。こちらは婚約指輪にふさわしいクオリティですよ」

「はぁ」

 もう帰りたい。指輪選びも店員にまかせてしまっているし、なぜ自分がこんな気苦労を背負わねばならないのか。

「なら、これでいい」

「ありがとうございます。この上のカラット数もございますが?」

「その辺りは、俺にゃよくわからねェ」

 店員の営業トークに夕神はぞんざいに答えて宝月を見た。肩をすくめる。これ以上付き合えない、という意思表示だった。夕神が頷いたので、そろそろ解放されるだろう。

「指輪はコレでいい」

「かしこまりました。それで、サイズなのですが……」

「そりゃ、コレを使ってくンな」

 言って、夕神が宝月の手を掴んだ。店員にずいと差し出して、流石の店員も目を丸くする。

「コイツの指。大体コレと同じはずでェ」

 ──そのためか。

 宝月は溜息を吐いた。最初から、指輪選びに連れてきたわけではなかったのだ。希月心音と、同じ指のサイズだと踏んで連れてきたのだ。

「まあ、さようでございますか。少しお手をお借りしてもよろしいですか」

「もー、どーにでも」

 投げやりに言うのを店員は柔らかく受け止めて、宝月の左手の薬指を取った。さっと懐から取り出したそっけない金属の輪っかを指に差し入れて、サイズを測りはじめる。

「……多分、あたしよりちょっと大きめにしておいた方がいいと思いますよ」

「あァ? 俺がココネの指見間違えるかァ」

「そりゃユガミ検事はキヅキ弁護士の指なら間違えないでしょうよ。でも、あたしのサイズはわからないじゃないですか」

 言い返すと、夕神が黙った。納得したのだろう。

「キヅキ弁護士は体育会系ですからね。あたしより、ちょっと関節しっかりしてますよ。あたしビーカーより重いもの持ったことないですから」

「そうかィ」

 夕神に適当に聞き流されたが、自分も夕神のノロケを聞き流したのでおあいこだろう。店員も頷いて、では少し大きめのものをご用意します、と言った。

「お名前と、日付もお入れすることができます。いかがいたしましょう」

「……to Kokone. 12.20」

 ──12月20日

 その日がどんな意味を持つのか、宝月は知っていた。おぼろげに、その日に愛を誓うのはこの2人にふさわしいな、と思う。

「お誕生日ですか?」

 何気なく尋ねてきた店員に、夕神が苦笑した気配がする。まさか己の出所日とも言えないだろう。

「……2人にとって、トクベツな日なんですよ」

 代わりに、宝月が応えておいた。店員もそれ以上は尋ねず、また素敵な日になりますね、と返すだけだった。

 

 

 店から丁寧に送り出されて外を見ると、夜の闇が濃くなって街路樹にくっついた電飾が一層鮮やかに映る。天然石の輝きを見たあとの電気光は安っぽく見えたが、これはこういうものなのだ、とすっと脳が切り替わるのを感じた。現実に戻ってきた感覚。

「……今日は、助かった」

 珍しく夕神が礼を言ってきたので、宝月はにやりと笑った。

「さて。なにをおごってもらいましょうかね。一杯くらいは付き合ってもらいますよ」

「ち。仕方ねェな」

 口で言うほど嫌がってはいない。もともとそのつもりだったろう。借りを借りたら返さないと気がすまない男だ。

「……それで。あれって結局いくらしたんですか」

 他人へのプレゼントの金額を尋ねるのは、通常なら野暮だと思う。だが、モノがモノだった。自分に訊く権利はあると思う。

 夕神は特別もったいぶらず、さらりと応えた。このマフラーいくらでしたか、くらいの感覚で。

 宝月は絶句した。そのまま沈黙する。引っ越し何回くらいできるだろう。

「……検事って、儲かるんですね……」

 辛うじてそれだけ言った。夕神が眉を跳ね上げる。

「俺ァ、別に自分で贅沢しねェからなァ。賠償金もたんまりぶんどったし、給料も十分。ココネも、まァ自分で自分を食わせてるし……使いドコロがこういうトコにしかねェンだよ」

 ココネ貯金だ。

 希月心音のために使用するサイフが、この男にはあるのだ。自分より希月心音のために金を注ぐ男。それが夕神迅なのだ。自分で把握していた以上に重症だった。

 宝月は少し遠い目をして、街の電飾を見た。自分はもう少しライトに付き合ってくれる男性がいいな、と思う。

「で、なにが食いてェンだ。甘味か。飯か」

「辛いものがいいですねー。

 ……甘いのは、もうお腹いっぱいです」

 

 

『聖なる夜の、その前に」Closed.